13年8月上旬
岩手小旅行
第1日 第2日 第3日


●第2日 13年8月8日(木) ホテル→浄土ヶ浜→宮古→小本→龍泉洞→小本→宮古→ホテル

 幼児連れなので常に15分の余裕を、と思って予定を立てているが、その15分も、着替えが〜、歯磨きが〜と騒いでいるうちにあっと言う間に過ぎ、遊覧船が9時半発なのに9:15近くにホテルを出た。第1駐車場まで15分近く、そこから遊覧船乗り場まで5分近くはかかる。ちょっと無理っぽい時刻だ。急いで車を止め、遊歩道までじりじりしながらエレヴェータで降りて、小走りに遊覧船乗り場に向かう。チケットは大人と子供1枚ずつ、さらに幼児にも無料の乗船券をくれるというので次男Mに渡す。ヤレヤレ、間に合った。
 すぐに出発した。船内は、1階、2階の閉じた部屋と、2階の後方にオープンの座席がある。1階席は海水がはねて窓に塩がついて外がきれいに見えないこともあって、客は誰もいなかった。やはり2階後方のオープン部分が人気で、ほとんどの客はここに集まっていた。なんとなれば、この遊覧船の売りは景観もさることながら、ウミネコの群れが人気なのであって、船内で売っている「うみねこパン」を狙って、出航前から鳥が寄ってくるほどなのである。
 そのうみねこパンは、すぐには発売しない。ガイドの方がひとしきり話をしてから、だ。息子どもは「まだパン売ってないの?」とうるさいが、ちっとは話を聞きなさい。いま乗っている第16陸中丸は2011年3月11日、観光客を降ろして30分後に地震に遭った。すぐに出航して、津波を越えて沖に出て2日間停泊。その間は積んでいたうみねこパンを食べて過ごし、のちに自衛隊からの食糧支援を受けて、津波で生じた漂流物を避けながら少しずつ陸に近づき、帰港したとのことだった。船長の判断で出航できたこの船だけは無事で、残る2隻は入渠中や係留中で、津波により破壊されたそうだ。震災後は、うみねこパンだけではなく、乾パンと水も常備するようになった由。

 うみねこパンの販売が始まった。売店があるわけではないので、係の人が買い物カゴに満載したパンを売り歩くのである。パンは1個100円、袋にうみねこパンと印刷され、人間が食べても良いが美味しくは無いらしい。パンをちぎって投げるもよし、ちぎったパンを握って手を挙げるもよし。ウミネコたちはすぐさまそれを見つけて降下して来る。勢い余って、パンを握る手まで嘴で挟んでしまうこともあるし、人の頭に止まったりぶつかったり、いや実に激しい。次男Mはちょっと怖くなって、服のフードを頭にかぶっている。長男Sはどんどんちぎっては投げ、で結局もう一つ、パンを買った。楽しい。
 外海というほど沖合ではないが、少し揺れが大きくなった。しばらく北上して沿岸の景色を見る。奥浄土ヶ浜からしばらく進むと漁港があって、津波で破壊と言うか、倒れたか分解して転がったか、何と言っていいか分からない状態の堤防を重機で砕いていた。潮吹き岩(といっても今日は海が静かだから水柱は立たない)を見て、その先に泊まっている休暇村の建物が一部見えた。その先で引き返して、波止場に戻った。少しうねっていたが、息子たちは気分悪くなることもなく、帰ってきた。
 船を降りると、出航直前に撮られていた写真のプリントができていた。良い記念になるから、買った。

 この後は龍泉洞に行くのだが、まだ時間があるので、昨日も行った小さな入り江まで歩いて、かっぱえびせんを買ってまたもウミネコの相手だ。ここでは、先ほど船の上で思いつかなかった撮影を試みた。左手にかっぱえびせんを持ち、ピントを合わせて、ウミネコが来た瞬間を撮る。何枚か試行錯誤をして良い物が撮れた。今更ながら、デジタルカメラって便利だね。

 しばらく海辺で遊んでいたら、案の定というか、次男Mがお尻を海水に浸けてしまった。車に戻って着替えをして、濡れたズボンとパンツはダッシュボードに置いて乾かすことにした。
 こんなことをしていたら、またも時間がギリギリに。レンタカーだから、そのまま龍泉洞まで行けば時刻なんぞ関係ないのだが、なにぶん鉄道好きとしては、三陸鉄道には乗っておきたい。列車の本数が限られるから、今を逃すと次は3時間近く待つ。まあ、そうなれば諦めて車で行けば良いのだけれど。それで、またも大急ぎで宮古駅に向かう。10分ちょっとで駅の駐車場に着いて、そこから三陸鉄道の駅まで、車の中で眠くなった息子たちを叱咤激励して走らせた。切符を自販機で買って、発車合図の中、乗車口に向かって走ったら次男Mのことを忘れていた。次男は駅の人に抱えられて来た。すみません。

 車中、そんなに混んではいない。各ボックスシートに1-2人、出入り口付近のロングシートに数人ずつといった感じだ。2両目が連結されているがこれはチャーターで、連結部の通路はつながっていない。我々はロングシートのところに座って、景色を眺めることにした。
 ところが、その肝心の景色だが、まあこれは来る前から予想はしていたけど、宮古−小本間(小本から北は田野畑まで震災被害で現時点も不通)は海岸沿いではなくて、トンネルが多く、景色はあまり見られない。トンネルといえば、浄土ヶ浜の遊歩道で経験した通り、中が寒くて結露するから、徐々に窓が曇ってきて、ますます景色が見えなくなった。残念だが、息子たちはそれでも楽しいようで、まあよかった。

 30分ほどで小本に到着した。駅前のロータリーにミニバスが止まっていて、これがこれから乗る岩泉町町民バスだ。町営ではなく町民バスという言い方が見慣れないが、これはこれで良いネーミングかも。出発には12分ほど余裕があるが、息子たちが焦って乗る乗るというので、周辺の写真も撮れずにバスに乗り込むことになった。
 小本は、岩泉町にある。岩泉町といえば私は間違って日本一大きな町、と記憶していた。実際には本州一、らしい。岩手県在住時、岩泉は広くて中心部はどこからも遠いというイメージがあって、今回ここから中心部近くの龍泉洞までも、バスで30分かかるから実際広い町だと思う。バスはほとんど人家がない道路を走って行き、停留所はたくさんあるがほとんど停まることはない。バスに乗っているのも数人だし、どうやって運営しているのか心配になる。まあ、自分自身、岩手県に4年半いて、車社会であることを実感していたから、バスで移動する人が少ないのはよく分かる。今回だって、三陸鉄道がなければきっと車で直接行っただろう。
 車窓風景はなかなかのもので、「水と緑のシンフォニー」と謳われるだけあって、森林と川が豊かだ。息子たちはこのけっこうな景色を見つつ、だんだん眠くなってついに座席に横になってしまった。龍泉洞でシャキッと起きてくれることを祈る。

 龍泉洞前の停留所に着いた。停留所に着く5分ほど前から起こしにかかっていたので、スムーズに降車できた。内陸の山間で、多少蒸し暑く、気温は28℃ほどだ。13時を回っているから、先に昼食にする。土産物屋の一角に食堂があるので、そこで食べる。あまり地元のものがなくて、結局カレーと麻婆丼とラーメンというどこでも食べられるものになってしまう。ただ、それなりに安くて、昨日の鰻丼1つでこの全部とほとんど同じ。蒸し暑いと言いつつ、テラスでこれらの熱くて辛いものを食べられるのだから、やはり横浜よりは断然過ごしやすい。息子たちはよく食べた。

 いよいよ洞内に入る。前に来たのは北上在住時だから10年ぶり以上だ。震災時には大きく崩れたりはなく、地底湖が濁ったりはしたそうだが、それもその後落ち着いたそうだし、通路や照明はリニューアルされてきれいになったらしい。照明はLEDに更新されたとか。
 洞内、入口付近で既に20℃を切っており、涼しい。新しくなった通路を少し歩くと、急激に温度が下がり、中は13℃とかまで冷えて、寒い。このことを予想して少なくとも息子たちの服は長袖を持ってくるつもりだったのだが、荷物に入れ忘れた上、次男Mは午前に海で服を濡らしたから、今は袖なしの服になっている。やれやれ、これは大失敗である。案の定、「寒い」と言い出し、次には「おしっこ行きたい」となってしまった。入って3分も経っていない地点だ。ここで出てしまうのはさすがにもったいないから、何とか頑張れと言って見学続行とする。寒いのも一因だろうから、結局途中から抱っこした。しかし問題は階段だ。後半の上り下りは階段というよりハシゴのような急角度で、さすがに抱いては登れないから、降ろして歩いてもらった。ステンレスの手すりが太く冷たくて、小さな次男は体を支えるのも大変だ。
 それはともかく、洞内の地底湖は美しい。透明度の高い水が絶えず流れていて数十メートル下まで見通せる。照明は演出が派手で、ここらへんは中国の鍾乳洞みたいな感じ(と言いつつ、中国のは1つしか見ていないが)。全行程で色をつけているわけではないから、そこは一応考えてあるのか。残念ながら次男のトイレが危ないから、三脚を持ってきたがそれを広げる時間はなかった。
 ここの洞窟には蝙蝠も住んでいる。長男Sは暗がりでもその蝙蝠がよく見えるらしく、止まっているとか動いたりを指摘してくれる。私にはほとんど見えないのだが。長男は全行程で元気だった。洞窟や急坂が好きなのだ。

 後半急ぎに急いで何とか、次男Mはトイレに間に合った。最深部で10℃くらいだったところから外に出ると、むわっとして汗が噴き出した。洞の前にある冷たい水を飲むのも良いが、それでも足りないから、新洞のほうにも入ってみる。こちらの入場券もついているし、こちらも涼しいからちょうど良い。
 新洞へは道路の下の通路を通っていくことができる。こちらは、人が住んでいた跡が見つかったところで、こんな年中10℃のところで..と思ったが、夏は外が28℃、冬はマイナス15℃とかにはなるだろうから、洞内に住むのは理に適っていたということか。新洞は写真撮影禁止なので、写真はない。
 この洞窟も、最後に急な階段があって、次男Mは怖くて寒いので進むのを断念。私と2人で待つことにして、長男Sだけが先に進むことになった。とはいってもそれほどの長さではないので、長男Sはすぐに戻ってきて、「なーんだこんなもんか」と拍子抜けして、「もう一回行ってくるね!」と2周した。本当に洞窟好きである。

 新洞を出て、帰りのバスの時間まではまだ1時間近くある。長男Sはもう一度入りたいという。自分も写真では心残りがあるのだが、何せ次男Mの服装がどうしようもないから、次回また、ということにして、龍泉洞の水が川になって流れているところの遊歩道を歩く。洞内の冷たい水が外に流れ出て外の空気を冷やすから、そこにうっすら霧のようなものが出ている。水量はものすごく、渓流というより急流だ。鬱蒼とした森の中は日陰とこの水流に冷やされて、湿度は高いが涼しい。水の音と蝉の声を聞きつつぼんやり歩くのは気分が良かった。

 帰りのバスは行きよりは混んでいて、息子たちは一人用の椅子にそれぞれ座った。眠って落っこちたりはしなかったので良かった。
 小本駅前に着く。切符を買って、さああと1時間は自由時間だ。駅の2階に図書室があったが、蒸し暑いのでパス。ほとんどプラットフォームで遊んでいた。遊ぶと言っても、何もないのであるが。プラットフォームはバスロータリーからは3階に相当するところにあって、何分かに一度、息子たちがトイレに行きたいというと、そこを降りていかねばならない。良い運動になった。高いところにあるプラットフォームは風がよく通って涼しかった。
 列車が来た。乗降客は少ないのに、2両もある。不思議に思っていると、片方は「回送」だった。ここで切り離し、1両は久慈の方の線路まで進んでしばらく留置されるようだ。団体客の貸切列車のために待機するらしい。この作業に伴って出発時刻が3分ほど遅れるとお詫びのアナウンスがあったけど、なに、今まで1時間以上待っていてここで3分をとやかく言うこともないし、貴重な切り離し作業が見られてかえってありがたい。

 帰路、行きのときに気になっていたところの景色を見る。田老地区だ。トンネルを潜って窓が曇っていたから、開けた。ここは三陸地方の中でも昔から津波被害が大きいところで、江戸・明治時代ではほぼ全滅の被害、昭和三陸地震でも家はほとんどが流されたという。その後大規模な防潮堤を築き、チリ地震の津波は凌ぐものの、11年の大震災では防潮堤が破壊され、大きな被害を生じた。三陸鉄道のプラットフォームは少し高いところにあって海側への視界が開けているのだが、何も見えない。平らな土地に、草が生えて緑色になっている。三陸鉄道より山側は、鉄道の敷地が堤防のような形になって助かったらしいが..山の上に移転するといってもこれは容易なことではないのが鉄道で走っていても分かる。よそものが自分の立場や想像で感想を述べても意味が無いと思う。

 宮古駅に戻り、駅で土産物でもと思って売店に行ったら、駅員さんが追いかけてきて、切符を記念にどうぞ、と持ってきてくれた。ありがたく頂いた。

 駐車場から車を出して宿に向かう。夕食もまたたくさん食べて、早めに寝た。


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