04年12月下旬−05年1月上旬
第1次(?)ペルー旅行
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●第7日 04年12月30日(木) プーノ→ウロス島→アマンタニ島

オスタルの食事室より 明け方、雨が降っていたが小降りになっている。今日から船でチチカカ湖に出る。ウロス、アマンタニ、タキーレの島を回り、そのうちアマンタニ島では民家に1泊する予定だ。
朝食 朝食はパンと飲み物程度だが、カフェ・コン・レーチェを所望すると、牛乳を温めてくれて、インスタントのコーヒーを添えてくれた。牛乳にシナモンが入っていて、これがコーヒーとよく合った。食事をして、荷物をまとめておく。今晩は島に泊まり、明後日はまたここに戻るから、1泊分の荷物を別にして残りは宿に預ける。預けついでに傘を借りた。宿のおばちゃんは英語を全く解さないが親切だ。

 8時のピックアップ予定だが少し遅れて1Box車が迎えに来た。オスタルの前の道が狭いので、後続車がすぐつっかえてしまってクラクションの嵐になる。折悪しく交通警官が通りがかり、ここに止めてはいかん、とお説教。のろのろと10mほど走ったところでドアを開け強行突入する。狭い路地で停車するといったって一瞬だし、車というものは走り出せばどこかで停まるもの、後続車だっていずれはどこかで乗降をするのだからお互い様だと思う。こういう狭いところでの乗降といえば初めて海外に行ったときのヴィーンを思い出すが、彼の地では数珠繋ぎになった後続車からのクラクションなどまるでなかった。つまり国民性の違いか。
 車内には先客がいた。オランダ人のH君で、もう5週間も旅しているという。我々は全日程でようやく2週間で、日本人の会社員では長いほうになるのだろうが海外の人の休暇というものは想像以上に長いなあ、と思ってもうちょっと聞いてみたら、H君、会社を辞めて次の就職まで旅しているのだという。なるほど、そういうパターンなら日本人にも居そうだ。もっとも私など、そんな長期の旅行をすると疲れがたまって後半は楽しめないかも知れないが。こういうのはそれぞれの好みでいいのだろう。

 チチカカ湖の港に着く。船は定員25人のモーターボートである。モーターボートなんていうと日本の湖によくある高速の観光船と思われてしまうが、これはボート、よく見るとけっこうボロいディーゼルエンジン1基のボロ船で、ガイドブックによれば45km沖のタキーレ島まで3時間というから、最高時速せいぜい10ノットといったところだ。補修した箇所もいろいろあるし、トイレの便座はないし(ついでに紙も)、一部雨漏りしていてクッションが濡れているような船だ。港には同様の船(雨漏りしているかどうかは別だが..)が多数いて進路が塞がれており、乗船したもののしばらくは出航できない。客はオランダ人のH君と我々の3人で、まさかこの人数で出るわけでもなかろうが、ぼちぼちH君との話のネタも尽きかけて、ぼんやりするしかない。H君は船室の椅子に横になるが、身長が2m以上あるようで、幅が50cm以下のシート(しかも船体に沿って曲がっている)に寝そべるのはかなり無理がある。それでもしっかり寝場所を確保して眠っている様子だ。
 しばらく待っていると、ワゴン車の第2便が来て、さらに8名が加わった。オーストラリア人3人(男1・女2)、スイス人男女2人、このスイス人カップルは愛想がよくて、男の方(S君)はカメラに興味がある様子。ニコンのD70を持っている。他にイタリア人男性1人、エクアドル在住の英国人女性1人、日本人のK原さんという男性が1人。エクアドル在住の人はドイツ語が書いてあるTシャツを着ていたからドイツ人かと思っていたら、きれいな英語を話された。K原さんは我々と同じようなコースでここまで来ており、高山病の症状がつらくて堪えている様子。クスコでのシティツアー等で1時間遅れはザラだったとか、けっこう外れの業者に当たったらしい。我々も、いいかげんなアレンジで焦った、みたいな話をする。当地で買った革の帽子がお似合いで、私などクスコで買った安物の帽子をわずか1日でなくしてしまったから、帽子がちょっと羨ましい。
ウロス島 さて、どうやらこの人数で確定らしい。周囲の船が居なくなり、我々の出航の順番になった。外は雨で肌寒く、皆船室内でぼんやりするばかりだ。船は予想通り速度はゆっくりで、20分もするとさらに速度が遅くなった。トトラという葦のような植物が群生する浅いところに差し掛かっているのだ。この先にウロス島というトトラでできた浮島がある。一つの島ではなく、色々な大きさの島があるらしい。このあたりの水深は3-4m程度で、トトラが生えていない(あるいは、切った)ところを水路のようにして船が進んで行く。時折、地元の人が小さな船ですれ違う。雨が上がったようだ。船の屋根に上がることができるようなので、そこに上る。トトラが生えているところは草原と見紛うほどで、広範囲にトトラがある。それだけ浅いところがあるということだろうか。

 しばらくして、島の一つに接岸した。おっかなびっくり降りてみると、トトラの島は柔らかくふかふかで、踏み抜いたりしないか不安になってしまう。が、私より大きな人たちも歩いているから大丈夫なのだろう。
ウロス島 ウロス島の家 広場(?) トトラの見本

 島の中央部は広場のようになっていて、そこでガイドが観光客に何やら説明するようだ。トトラが何本かあって、チチカ横取りカで取れる魚が器に入れられている。トトラの説明をしていると、鳥がやってきて器の魚を食べてしまった。ガイドさんは全然気にしていないようだが、島の女の子が「シッ、シッ」と言って追い出した。さて、説明はスペイン語と英語の2回行われ、マチュピチュと同じやり方である。ちょっとした説明も長くなってしまうが仕方がない。トトラは全長数mで、根元はねぎのように白く、この部分は食べられるそうだ。いくつかちぎってくれたので食べてみると、ほんのり甘く、スポンジのようにふかふかしている。これが折り重なって、島になっているのだという。トトラは船にもなり、大きなものは2階建てのやぐらのようなものが載っている船もあるようだが、これは観光用の船のようだ。ここの住民は小さな船に乗っている。
 説明が終わって、島内を見学する。撮影は自由だというから遠慮なく撮る。島の端部は、最初の懸念通り地盤(?)が弱い箇所があるらしくて、ロープを張って通行できないようになっているところもあった。広場の周りは土産物屋で、トトラで作ったミニチュアの船など、なかなか面白いものが売られている。価格はだいたい1-5ドルで安いのか高いのか一瞬分からないが、この国の食事を基準にすると1ドル(3ソレス強)で1食だからけっこう良い値段ではある。Sが土産として船のミニチュアを20個をまとめ買いする。足りなくなって、5ドルの製品を解体して1ドルの物件にしていた。粗末なビニール袋に詰めて、外観は何だか汚い草が入った袋のようなものになってしまった。こいつは帰国後カビが生えていて、配る前にたいへん難儀をした。
 トトラで作られた家々を見る。小さく、狭い家だ。大きな島にはトタンでできた箱型の家もあるらしいが、いまここには円錐形と箱型の小さなものばかりである。ソーラーシステムがあって電気は使えるようで、TVも見られるらしい。家が狭いからか、あるいはデモのためか煮炊きは外でやっていた。可燃物の上で火を使うわけだから見ていてなんだか恐ろしい。
トトラで作った舟 可燃物の上で煮炊き 特需到来 土産物 トトラの花

 ガイドさんに呼ばれ、対岸の「首都」の島に向かうと言われた。モーターボートではなく、トトラの船だ。分厚く、きつく縛られたトトラの上に座るだけの船である。トトラに朝の雨トトラ舟と学校が染みていて冷たい。この小さな船に(私も含めて)体重の重い西洋人たちが何人も乗るのは不安に思ったが、全く問題はなかった。トトラの浮力は大したものらしい。船を漕ぐのは島民で、私は近くに座っていたのでいろいろと質問をされる。よく考えたら、こっちが客トトラを干すで、こっちから質問をするのが普通なのだが。何をしているのか、収入はいくらだ、と非常に答えにくい質問をされる。会社員、というのはこういう観光地では説明が難しい職業で、何せ会社員と言ったっていろんな仕事があるし、半導体製品の開発と量産立ち上げ、なんて言っても理解されるかどうか..収入は何だか言うのが憚られて、適当な数字を言ってしまった。

 首都の島に着く。ここにはウロス群島唯一の公衆電話と、郵便局の出張所がある。島の中央には池があって、つまりトトラの浮島の中に池を作っているわけで、凝っているというか何と言うか。その脇ではおばあさんが石の板の上で穀物を粉にしていた。島の裏手にはトタンの家もあって、近くにはフローティングの上に建てられた学校もあるという。ソーラーシステムや学校はフジモリ政権のときに整備されたもので、今でもこの付近には支持者が多いという。なお、ここではスペイン語読みでフヒモリと発音される。日本人と見ると、フヒモリはいつ帰ってくるのだ、と真顔で質問されることもあるらしい。フジモリ氏が日本に来てその後どうなったかを一般の日本人に聞いても知るわけないのだが。
粉を作る 唯一の公衆電話 島の中に池 2階建ての舟も トタン製の家もある

 モーターボートが島に迎えに来て、ウロス島の観光は終了した。ここから、アマンタニ島までは3時間で、まだまだ先は長い。しばらくはトトラの群生地を進み、そこを抜けると雄大なチチカカ湖の風景が広がった。屋根の上は風があたって寒い。風景が楽しめるのは良いがだんだん我慢が出来なくなって一人二人と減っていき、ついに私とK原さんだけになってしまった。会話も途切れたので私も船室に戻る。室内の暖かさについ寝入ってしまう。気付くと、左手に島のようなものが見えたのでアマンタニ島かと思ったらそうではなくて、チチカカ湖に大きく突き出している半島の一つであった。ここからまだ1時間もかかる。地図で見ると近いのだが、船足も遅い。退屈する。
水路を進む 雲が多く、天気は不安定 まるで草原

 アマンタニ島が近づいてきた。島は木が少なく、斜面は段々畑になっている。家はちらほらとあるだけで、ここに4000人も本当に住んでいるアマンタニ島のか疑問だ。港に着く。船酔い少々。上陸して、ホスト宅島の斜面は段々畑だの人に紹介される。我々2人が泊まるのはフアンさんというところで、港に一番近い家だ。何しろプーノの標高が既に3815m、湖面もそのくらいであり、富士山の頂上からさらに坂を登ることになるから近いのはありがたい。フアンさんの家は夫人と息子2人、娘1人、おばあさんの5人が住んでいるようで、家は平屋でコの字型に部屋が並び、中庭があって広い。門を入ってすぐ左が大人たちの部屋、その隣が客室(約6畳)、正面左が子供部屋、正面がトイレとシャワー(ただしシャワーは使われている様子がない)、正面右は教室のような大きな部屋で、何やら私塾でもやっているのだろうか。そのわりに英語は全く通じないが。その隣には食器などが置かれた倉庫のような部屋だ。厨房はべつの建物で、門を出て向かい側の小さな小屋でホスト宅調理しているようだ。中庭でフアンさんの説明を聞く。スペイン語なので1割程度分かるかどうか、というところだ。15分後に昼食、と聞こえたのでとりあえず部屋に入る。客室は、窓はないものの屋根に乳白色の樹脂の板を使っていて光が入るようになっている。樹脂板の下にはトトラの編み物を置客室いてあり、光量を調節している。6畳くらいの部屋に小さなベッドが3台あり、長さがちと足りない。私の身長は178cmだが、それでも足がはみ出る。欧米人ではまず20cm近くは足が出るのではなかろうか。そういえば、インディヘナの人たちは欧米人に比べて小柄に思える。ベッドの中央部は過去に大きな人たちが寝泊りしたせいか凹んでいて、ぎしぎししている。布団は薄く、夜は寒そうだ。電灯のスイッチはあるが点灯せず、どうやら電気が来ていない様子。そう、ここは基本的に電気が通っていないところなのだ。年に何度か、特別なときにしか電気は通らない。なんと、ぬかったことに懐中電灯をプーノの宿に預けたカバンに忘れてきた。大変な失態だ。今晩はどうやって明かりを取るべきか、後でフアンさんに相談したいがスペイン語しか通じないのは厳しい。

 ともあれ、昼食まで外を散歩家の前からの眺めする。中庭に面した壁にチョークで「ドラゴンボー斜面の方向を見るル」の主人公の絵が書いてある。長男が書いたらしい。電気が来ていないから、TVは見られないわけで、おそらく島の共同の集会所か何かでTVを見ていると思われる。外に出る。ここは島であり、平地と言えるところは極めて少なく、斜面ばかりの土地だ。隣の家には数十mの距離があり、機械や電化製品がないせいか、静寂そのものだ。聞こえるのはただただ、波と風の音ばかり。風が冷たく、ぼんやりしていると体が冷えてくる。フアンさんの言う15分はもうとっくに過ぎている。Sがメシはまだかと騒ぎ始めた。日本語が分からないから図に乗って悪態をつくのは、いささか行儀が悪いというものだ。ペルー人と日本人とはいってもやはり人間、雰囲気というのは語感から察せられるのだ。
 とはいえ、1時間近く経昼食、なかなかの味教室のような部屋っての昼食は確かに遅かった。もう15時近い。客室向かいの、教室のような大きな部屋で食べる。メニューは、野菜のスープ、ハーブティ(高山病に効く植物を湯に漬けたもの)、ジャガイモにトマトとスパイスで味付けしたものが出た。この島では肉類は食べない、とガイドさんが言っていたことを思い出した。スープは濃厚で、いろいろな野菜が刻まれて煮込んである。なかなかの味だ。ジャガイモもスパイシーで味が染みていて美味しい。ハーブティは、元々お茶のような植物ではなく、味はほとんどない。強烈な刺激臭があり、気付け薬のようなものだろうか。食後、食器を洗って返した。教室には教材と思われる絵やローマ字の表などが貼ってある。写真とともに、ここに泊まって世話になった礼を書いた手紙などもある。中には仏語の手紙もあって果たしてこの家族に読まれたかどうかは疑問だ。珍しいだろうから、帰国して日本語とスペイン語の対訳の手紙でも書いてみようかと思う。

 16時に中央広場に集合、ということだったので、末っ子(4-5才)の男の子に案内してもらう。情けないことに、いくらも歩かないうちに息が切れた。我々のホストハウスは港に近い分、中央広場には遠いのだ。すぐに中央広場糸つむぎ?距離が開いてしまい、何度も待ってもらった。夜にも広場でイヴェントがあるはずで、照明が全くない夜道を20分以上歩くのは極めて危険だ。中央広場には既に何名か集まっていて、それぞれ寛いでいた。この広場はインカで言うところの「アルマス広場」ではなく、中央広場(Plaza principale)と称するらしい。インカといえば、ここチチカカ湖に浮かぶ太陽の島に初代皇帝マンコ・カパクが降臨したということになっているが、その近くであるこの島にはインカ帝国の都市整備はなされなかったのだろうか。まあ、実際には、インカはクスコを首都として国を整備したわけだから、伝説の発祥の地と近いからといって付近の島を整備することもないか。隣のタキーレ島もやはり中央広場と呼ぶのだそうだ。
 さて、ここに集合して、島の頂上まで登るらしい。日没がきれいなのだそうで、楽しみではあるが、何と頂上は4130mの標高で、ここから200mくらいは登ることになる。私はすぐに集団から遅れてしまい、甚だ難儀した。途中、ガイドさんが説明するために止まっているところでようやく追いつき、息が整わないまま次に、という感じで一向に追いつかない。日頃の運動不足を呪うが仕方ない。欧米人の方々は健脚で、全く高地が気にならない、と言っている。心肺機能の差が大きいようだ。しばらく登ると、木々がなくなり森林限界を超えたことが分かる。4000m超でようやく森林限界なのだからやはり太陽の恵みは偉大と言えよう。そして、この付近にも立派な畑がある。頂上付近の方が傾斜が緩やかなので、土地が上手く使えるということのようだ。途中で、何やら塔の窪みに祈りながら石を投げ入れるというところがあったが、息が乱れていて全く入らなかった。どうやら願い事は上手く行かないようだ。
 8割ほど登ったところで道が分岐する。月の神殿と太陽の神殿に分かれている。我々は太陽の方に登ることにした。頂上の神殿には年に一度しか入れないそうで、今は周辺を見るだけになる。神殿の外側を反時計回りに3回回ると願い事がかなうというから、先ほどの石の件が相殺されるかも知れない。それ以前に、山道を克服しなければならないが、これがなかなか大変だった。左右には物売りの女性たちがいて、編物をしながらその成果物を売っている。鮮やかで、それぞれ個性的で美しいが、遅れているので冷やかすこともできなかった。
整備されたきれいな歩道 ハーブで一休みの筆者 私は入りませんでした 何の花だろう
だんだん平地が増える チチカカ湖を望む 頂上付近の畑

 ようやく頂上に着く。神殿は石造りの壁がぐるりとあるだけのようで、窓のようなところから覗いてみたが内部はがらんとしていた。頂上は風があって涼しい..というより寒い。プーノの方向には重い雲がかかり、時折稲光が見える。その雲は急速にこちらに向かっているようで、今夜は大雨になりそうだ。
 ところで「チチカカ湖、雨」とくれば「ゴルゴ13」の「チチカカ湖はどしゃぶり」を思い出す。南米某国(おそらくボリヴィア)の独裁者が別荘で週末を過ごすのだが、天気予報に「チチカカ湖はどしゃぶり」というのが出ると、それは首都騒乱の暗号なのだそうで..でも、この調子では雨季は毎日雨が降ってしまうのではなかろうか。まあそんなことをつらつら思いながら神殿の外を3周した。夕日はというと、西にも雲があってそれほどきれいには見られない。ガイドさんが、雨雲も来ているから帰ろう、と言うので下山することにした。
頂上にある神殿 チチカカ湖はどしゃぶり 神殿内部 夕日は見られず

 帰りの道もすっかり遅れてしまった私だが、中央広場に着いてみると、他のメンバーは未だ広場に居た。他に戻ってきていない人がいるようだ。しかし刻一刻と日は落ちて広場には夕闇が迫っている。雑貨を売る店はろうそくが照明であった。皆で協議し、いま居るメンバーはこの時点でホスト宅に帰るべきだ、と結論する。「ところで、帰り道覚えている人いる?」とのオーストラリアの兄ちゃんの一言に皆、大爆笑。そう、ここまでホスト宅から送って来てくれた中央広場の売店子供たちが、帰宅して既に居ないのであった。実は笑っている場合ではないのであって、道順が覚束ない上にこうも暗いと、危険である。ガイドさんが現れ、そこらへんにいたおばちゃんたちに「○○宅まで連れて行ってくれ」と依頼してくれた。そこで我々もスイス人の2人と共に歩いて帰ることにした。道は暗い。とにかく暗い。我々以外の人たちも、ここまで遅い時間帯に帰ることを想定していなかったのか、懐中電灯を持っている人はいない。おばちゃんたちは暗さを意に介さず、ずんずんと進んで行く。途中で、スイス人が右に折れて行き、おばちゃんたちは直進という状況になる。さて、我々はどっちなのだろう。我々は一番広場から遠いのだから、と勝手に考えて直進したのが運の尽き、おばちゃんたちはすっと闇に溶け込んでしまい、我々はフアンさんの家を見つけられないという最悪の事態に立ち至った。行き過ぎたのは確かであり、海の方向に下りるしかないので、方向転換しひたすら左下、左下を目指して歩く。通路は凸凹で、道がなくなると畑の中のあぜ道を通る。上のほうから笛の音と、子供の話し声がする。それが海の方向に移動して行くので、それに勇気付けられて我々も足を速める。笛の音は驚くほど早く斜面の下に消えていき、それと同時に我々の気力も急速に萎えた。Sがフアンさーん、と日本語交じりで叫ぶ。返事は無く、風と波の音がするばかりだ。2度目を叫んだ後に、遠くから白いLEDの光が見えてきた。末っ子が迎えにきてくれたのだ。感動のあまり、涙が出た。暗いからそれは誤魔化せたと思う。何度もお礼を言った。

 家も真っ暗である。特別なときしか電気が通らないから、部屋部屋を照らすろうそくの照明もろうそくしかない。風が強いので、部屋を出ると火が消えてしまう。トイレに行くのにも一苦労だ。精神的にも体力的にも疲れた。ベッドに寝転がり、一息つく。ああ、懐中電灯を忘れるとは本当にバカなことをしたもの夕食だ。20時に再び広場に行くことになっているが、このままでは行けない。しかし行かないとガイドさんは人数が足りないことに気付き騒ぎになるかも知れず、欠席を伝えるにも電話もない。どうすべきだろうか。などと考えていると、食事が出来たという。食堂まで歩く間に火が消えて、またつける。夕食はポテトのトマト風味で、ライスが添えてある。質素だが美味しい。空腹でもあり、あっという間に食べてしまう。ライスは固めで、熱があまり通っていないように感じる。高地で、沸点が低いからだろう。ろうそくの光での食事は貴重な体験だった。食器を洗って返そうと思うが、中庭にある流しでは火が消えそうで、慌てて食器を洗った。
 末っ子が来て、先ほど悩んでいた20時のイヴェントに行くか、と聞かれる。案内してくれるというので、それなら行こうかと思う。食事をして気持ちに余裕ができて、さらに先導してくれるとあって少し気が楽になったのだ。しかし懐中電灯がない。フアンさん宅には白色LEDのライトの他にはもう一つ小型の懐中電灯があるが、これは電池切れで使えない。待てよ、それこんな格好ですなら中央広場の集会所の売店が開いていればそこで買えばいい。そして電池はフアンさん宅にプレゼントすればよいわけで、この案を採用。しばらくして、お母さんが民族衣装を持って現れる。Sにはけっこう本格的に着付けをして、私はポンチョと帽子だけだ。このポンチョが分厚い毛織のもので、ホカホカと暖かい。ポンチョというと、スキー場で使われるいいかげんなものしか見ていなかったからこの厚さが新鮮で、ありがたい。外はすっかり冷え込んでいるのだ。
 末っ子が夜道を先導してくれる。驚くべきことに、末っ子は懐中電灯(ヘッドライトのようなタイプ)を頭の後ろに着けて、我々の足元を照らしてくれるのだ。つまり、彼の足元は真っ暗なのである。通り慣れた道ということもあるだろうが、わずかな星明りを頼りに歩くのには恐れ入った。またまた坂道で息が切れ、ほうほうの態で中央広場に着く。広場の端にある集会所に案内される。売店があって、そこでソニー製の電池を2個買う。2ソレスであった。懐中電灯に入れて、点灯を確認する。一安心だ。なんつーフレーミング..

 ところで、集会所には我々が一番乗りで、次に来たのはスイス人の2人。この人たちは衣装がすばらしく似合っていて「素敵」という文字を躊躇なく使える。対して、我々は..ちょっとずんぐりでどうも..集会場の前で写真を撮ってもらう。スイス人たちと4人で撮ってもらったら、現地のおばちゃんはカメラの操作が覚束なくて、右のようなとんでもない構図になっていた。
 集会場は15畳くらいのスペースで、正面中央には大きなTVがある。なるほど、これが島の共同TVなのだ。DVDまであるがどれほど活用されているのだろう。ところでこの集会場は電気を使っていて、僅かながら蛍光灯が点灯している。そういえば、電気はどうしているんだ、と昼間ガイドさんに聞いたら、ヘネラシオンだ、と言われたのだけど、これは英語で言うジェネレーションのことで、発電。集会場には独自の発電装置かソーラーシステムがあるか、あるいはここだけ特別に電気を使うことを許されているのかも知れない。

 三々五々、メンバーが集まり、民族衣装を着てのダンスが始まった。伴奏は、フアンさん宅の親子3人少年たちが演奏と、もう一人は別の家から来た子供だ。フアンさんのギターも上手いが、長男の笛もなかなかだ。先ほど聞こえていた笛は彼の音だったのか。客はこの音楽に合わせて(合ってないかも..)ただ会場をぐるぐる回るだけで、いやただそれだけなのだがけっこう面白かった。演奏が一通り終わると、フアンさんは末っ子を残して帰ってしまった。次はDVDをBGMに使うようだが、なんと、DVDプレイヤ、ダンスの様子TV、蛍光灯が同時に使えない。容量不足でTVの電源が落ちてしまうのだ。仕方なく、照明をさらに切り詰めて再生する。DVDはペルーの民族音楽をベースにしたバンドの演奏で、カラオケになっている。楽器は、メインが当地の笛である他は、ベースやドラムなど西洋の楽器と混在していて、和声も西洋音楽の規則に従っている。字幕の色が変わっていくのだが、歌が録音されていないからどんな旋律なのかは想像で埋めるしかない。音楽的には少々単調な感もあるが、どこかでCDでも買って帰ろうかと思う。なお、ペルーでCDと言うとCD-Rであり、プレスされたCDはほとんど見かけない。これはタンザニアでもそうだったが、これがパチものなのか正規の業者が設備投資の都合でRにしているのかは分からない。

 21時過ぎに末っ子に声を掛けて退出する。彼は、演奏する機会が失われて退屈していたのだ。帰りは、懐中電灯の光頼りに、少しはマシな歩き方になった。そのまま明日の朝まで懐中電灯を借りることにして、床に就いた。


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