09年4月下旬−5月中旬
第4次欧州旅行


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●第6日 09年4月29日(水) ヴィーン→プラハ

 ヴィーンを1泊増やしたが、どうも足りない感じがする。それだけ、音楽好きには魅力がある街である。しかし、せっかいぎばん?くライプツィヒ行きを計画しているのだから(今後あまり行くことがなさそうだし)、ここらで切り上げよう。今日はプラハに向かう。全体の日程の中で、プラハを1泊削って、あとは変えないようにする。ただしその前に行きたいところがあるハイドンハウス。ハイドンハウスである。前のときに行っているが、今年はハイドン没後200周年であるから、やはり行かねばならない。休館日が月火と今回の滞在には不適なのだが、今日午前にそこに行き、その後プラハに向かうことにする。
 前回の旅行でハイドンハウスにどう行ったかすっかり忘れていたが、西駅から歩いて何となくハイドンハウスに着いた。展示は大幅に増えていて、さすが記念の年だ。天地創造の自筆譜(複製)が置いてあるショウケースが汚れていたようで、ちょうどガラスを外してあった。そこをすかさず撮影。この手の記念館が撮影OKなのは実に嬉しい。展示物には英文の詳しい解説もついているし、壁にはハイドンの手紙などの文言が書かれていて(英文併記)、前より親切だ。トランペット協奏曲の自筆譜が展示から外されていたのは残念。
 ある部屋の壁にはハイドンの日課が書かれていた。6時半起床、8時から作曲、11時半から来客対応、14時から昼食、16時から作曲、20時に外出、22時に夕食、23時半に就寝、とある。意外に音楽の時間が少ないと思う。また、晩年は知人からの招待に応じられなくて、代わりにカードを送っていたという。名刺のような小さなカードで、「年をとって、体が弱くなったので」という歌詞に曲がついている。うむ、これをもらったらさすがに「そこをなんとか」とは言えないなあ。
 中庭は、ハイドンの生きていた頃のヴィーンの庭園様式を模した植え込みが作られており、きれいだった。庭園はいいとして、建物も完璧にきれいになっているので、かえって「ここでハイドンが亡くなったんだ」という感慨が得られにくい気がした。
階段の壁にもいろいろ書いてある 楽器博物館にあったハイドン像を使って 天地創造の自筆譜 ハイドン 最後の書付け 昔のヴィーンの庭園を再現しているとか

 ハイドンハウスを出た。そうだ、ここ西駅付近となればライカシライカショップョップが近い。そこにも行ってみることにしよう。すぐに見つかり、中に入ると、いやまあものすごい銀塩カメラの数々。フォクトレンダーのカラーランターというSLR用レンズを探してもらい、待つ間に店内を撮影させてもらう。カメラも面白いが、それらはほとんどが見たことのあるものばかり。そういう意味では日本ってすごい。モノがいくらでも集まるということだから。新鮮なのは、昔のカメラ屋の店先にあったであろう、古い看板たちである。こういうものは日本にはないのだ(売り物にならないから、だろうか..)。レンズはなんと在庫していた。しかもけっこうきれい。ただし、問題があって距離指標がでたらめである。それを指摘すると、ちょっと直せるか見てもらうというので5分ほど待っていた。結局その場では直らない(直せる人がいない)、ということだった。週末には出来るのだけど、というのだが残念ながら今日、プラハに向かうのだ。まさかこんな安いレンズ(値段は聞かなかったが、この手のレンズは数千円程度)のためにまたヴィーンに寄るなんてばかばかしいので、やめときます、ということで店を出た。
 ライカショップの向かいにもカメラ屋があったので入ってみた。品揃えはたいしたことがなかった。代わりにシュウェップスのドライレモン(1ユーロ)を買って出てきた。

 まだ少し時間があるので、シェーンブルン宮殿に行ってみることにする。U6→U4と乗り継げばいい。駅から宮殿まではけっこう距離がある。正確に言うと、宮殿敷地は近いのだが、入口までは延々と歩道を歩かねばならない。敷地がそれだけ巨大というわシェーンブルン宮殿けで、当時のハプスブルク家の勢いには驚くばかりだ。宮殿ツアーは見られる部屋の数で値段が異なっている。一番安いのは9.5ユーロで、これは約35分かかるという。これでいい。もう一つ上のランクだと50分となり、南駅に移動する時間がまずくなってくる。
 内部は撮影禁止である。中に入ってみたら、結果として撮影どころではなかったのだが、つまり人が多すぎて流されるように進まざるを得ず、許されていても撮影する気になったかどうか..落ち着いて見るのが困難な状態だった。ガイドツアーも多く、いろいろな言語が飛び交っていた。オーディオガイド(チケットに含まれる)は例によって携帯電話のような装置だが、これは話が長すぎて、後から来るほかの人たちに押し出されるように部屋を出てしまうので、使いようがなかった。最初の部屋の説明が終わる頃には、私はもう4番目の部屋に居た。超有名観光地ゆえ仕方ないとはいえ、少々空しい。
 そんなわけで、35分以内に終わってしまい、出てきた。庭園のほうに回りたいが、そこまで行く時間はなさそうし、激しい雨が降ってきたから諦めて駅に向かった。南駅近くでは不思議なことに雨どころか、地面も濡れていなかった。ヴィーンでもこんな局地的な雨が降るのか。ホテルで荷物を受け取り、南駅に行く。そういえばこの最寄り駅、マツラインスドルファ・プラーツだが、西方向への列車が停車しない。実は昨日気付いたのだ。1番線は東行き、2番線が西行きになるはずが、2番線の駅の近くで工事をしていてレールが途切れている!これでは当然停まらない。しかしその告知が大きく書いてあって然るべきだと思うのだが、それは全然見当たらない。よく見たら、プラットフォームに入る手前のドアに、小さな紙が貼ってあって、それに小さく書いてあった。ドイツ語のみ。こういう掲示って、英語併記はまったくない。観光都市とはいえ、こういうところまでは窓口の工夫手が回らないってことかね。
 というのは今はどうでもよくて、東行きは当然停まってくれるのですんなりと南駅についた。まだ時間は40分ほどあり、乗る列車EC16アントニン・ドヴォジャーク号は入線していない。駅の売店で簡単なパンと飲み物を買おうと思って店に入ったら店員に韓国語で挨拶された。いや日本人なんですが..そういえば、ハングルはヴィーン市内ではほとんど見かけた記憶がない。でもその店には辛ラーメンがあったり、ちょっとしたテーブルと椅子があるコーナーにはハングルの落書きがされていた。なるほど、韓国人も一定数は来ているのだろう。

 なおもしばらくうろうろして、入線したようなのでプラットフォームに上がチェコ国鉄のペンドリーノる。車体は白、緑がかった青と黄色のラインはチェコ国旗の色、即ちチェコ国鉄の車両である。製造はイタリア、ペンドリーノ(振り子式車両)である。ペンドリーノには乗ったことがないので、これはこれで貴重な機会であるが、ただ正直な気持ちでは、こういう電車急行より、客車の、昔ながらの国際急行に乗りたかったと思わぬでもない。今や欧州も高速車両の競争時代であり、ドイツはICEだらけ、フランスもTGVだらけ、そういう高速列車が走らない区間だけ、ECとかICとかが走っている。普段乗っていないのに余計なお世話なのだろうけど、やっぱり寂しい気がするのだ。また、新型車両には注文をつ1等車けたいこともある。先日のICEでも感じたが、1等があまり広くなくて、ビジネスライクで無機質に思えてしまう。これはどうにか歯止めがかからないものだろうか。無機質な輸送手段は新幹線でこりごりである。よりによって本家のヨーロッパがそんな方向に進化(退化)して欲しくない。1等車の室内
 とまあ、本当に余計なお世話なことを書き連ねてしまった。しかし、いま目の前にあるペンドリーノも、どうもその手の合理化が見て取れる。まず、やはり1等が広くない。さらには複数や単独で乗るためにいろんなシートの並び方(1人、2人向かい、2人並び、4人向かい)があるが、それらは固定である。車両の幅が狭く、椅子を回転するという機構が入れられないのだろう。さらに、一部の座席ではリクライニングすらできない。ちなみに私の席がそれだった。椅子の前後を詰めすぎなのだ。しかも、荷物スペースが極端に少ない。私の乗った車両では、遠いほうの車端に、スーツケース2-3個置けるかどうかの狭い荷物置き場があった。座席の上の棚は上下が狭く、ビジネスのアタッシュケースか、薄めのバックパック程度しか入らない。足元は狭いから中型のカメラバッグを置くと通路への出入が困難だ。2等もほぼ同じで、座席そのものも1等とほとんど変わらないようだった。
列車行程表とコーヒー
 列窓がもう少しきれいだと嬉しいが車は定刻に出発した。私は検札にきた車掌に、座席を替わりたいと申告した。OKだった。幸い、車内は非常に空いていて、私以外に家族連れが4人、ビジネスパーソン風の女性が1人。途中で数人乗ってきたが、私の移動したところには誰も来なかった。列車は振り子の恩恵はさほどなく、というのも今のところは平坦でまっすぐなところを走っているからだ。緩やかな丘陵と平野が続く。チェコの田舎の風景は美しい。
 ブルーノを過ぎてからは山間を走るようになり、左右に車体を振って重心をカーヴ内側に持っていくのが分かる。ちょっと動きがぎこちない気がする。また、空調のon/off音がず車窓風景いぶん大きい。ブンッ!と言って振動が伝わってくるほどだ。まあ欧州は各地の古い路線のために車体を大きくはできず、エアコンもスペースが限られるだろうからいろいろ大変なのかも知れない。
 しばらく日記を書き進め、ちょっとうとうとしたりしていた。座席にケチはつけたが、椅子そのものの質は悪くはないプラハ・フラヴニ・ナードラジー駅到着。今は4人向かい席に独りで座っているから足元も広いし。
 プラハ近くにくると急速に天気が悪くなり、プラハ到着時は雨だった。プラハ・フラヴニ・ナードラジー駅への入線のときにはスメタナの「ヴルタヴァ(モルダウ)」の旋律が流れた。個人的には、この列車の愛称に準じてドヴォジャークの曲を流してもらいたいが。

 駅に着いた。非常に暗い、陰気な駅で駅構内は薄暗いある。たいがいヨーロッパの駅や道は暗いが、ここは格別に暗いように見える。工事中の箇所もそれを助長しているようだが、まあこれは初めて見るところだと特にそう感じるだけのことかも知れない。ホテルは地下鉄で5駅南下したところにある。まずはチェココルナ
(以下、単にコルナと称す)を作らねばならない。ATMでキャッシングしたら500コルナ札1枚が出てきた。うーん、これは絶対、自販機に入らないよな..案の定というかそれ以上に問題で、コインしか使えないのだった。仕方なく、駅で唯一営業している商店、パン屋さんに行きアイスティと水を買う。到着が20時だったので、これ以外の店は全く開いていないのだ。小額の買い物をお札ですると嫌な顔をするのはどこでも一緒で、でもこっちは本当にそれしか持っていないから仕方ない。お釣りをもらうと、自販機にとりついて早速購入..のはずが、こんどは50コルナ硬貨を受け付けてくれない。ちゃんと使えると書いてあるが、使えないのだ。50コルナ硬貨は2ユーロ弱である。それほど高額ではないのだが、これが使えないとなるとフリー切符は小銭をじゃらじゃら入れなければならない。不便だ。そこで、またもパン屋さんに行き、小さいパンを買ってさらに細かくした。今度は20コルナ硬貨で、これでようやく購入できた。切符は、5駅・乗り換えなし・20分以内18コルナである。改札チェック機に入れて日時を刻印する。

 地下鉄C号線は最も新しい路線で、車両も新しくきれいだ。駅は薄暗いが、車両内は明るく、比較的安心して乗れる気がする(あくまで、気のせいだが)。スリに遭わないよう、ドア付近は避けて椅子に座る。電光掲示板にプジーシュティ・スタニツェと出るがこれは「次の駅」らしい。この電光表示は親切で、駅に止まっているときは"⇒ Haje"と、最終目的地が出ているし、走行中は次の駅が出る。ドアが閉まる際には「乗り降りを終えて下さい、ドアが閉まります」という意味の長いアナウンスがかかるのでタイミングはつかみやすい。
 ホテルの最寄り駅は実は2つあるのだが、何となく、遠いほうの駅、パンクラークで降りてみる。ホテルの部屋は細長いこの駅は坂の上にホテル・パンクラークあり、荷物を引いて歩くには好都合だった。ただし、歩道が途中で途切れてしまうので、運転の荒いチェコの車には要注意だ。ホテルにはすぐ着いた。市内の観光地から離れている、静かな住宅地の一角だ。
 ホテルは平屋建て。正確には建物が坂道の途中にあり、上のほうにホテルの出入口があり、坂の下、ホテルから見ると階下にホテルが経営するイタリアンレストランがあるという構造だ。ホテルの使っている階としてはまあ、平屋という言い方でもいいかと。新しい建物のようで、全般にきれいである。私の部屋は4号室、ベッドが3つある部屋で、部屋は細長く、ドアを入ってすぐ左がトイレ、次いでバスルーム、寝室となっている。寝室の入口側にテーブルがあるが、照明器具がなくて手元が暗いのが惜しい。サラダ、多すぎです
 腹が減ったので、ホテルのボロネーゼ経営するレストランでサラダとスパゲティボロネーゼを食べた。食べ終わり、なんでチェコに来て初っ端がこれなんだ、ま、ペンドリーノとのつながりでそれもいいか、と独りごちた。





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